佐和山の思い出7

先週の土曜日25日放映のBS11「偉人・素顔の履歴書」に出演させていただきました。
いつも思うのは石田三成の全体像はとらえるのが大変難しいということです。
部分部分は合っていても、全体像となると決定版などいまだありません。
それほど、三成は単純でない、様々な面を持っているということです。
秀吉時代の京都伏見城には、「治部少丸」という曲輪がありました。
名前の通り、三成の屋敷があったところですが、その屋敷の応接間はかなり立派だったようです。
しかし、それ以外はかなりひどいというか安普請だったようで雨漏りしていたようです。
三成は奉行筆頭として様々な賓客に会わねばならず、それにふさわしく立派な応接間を作りましたが、自らの住居についてはあまり構わなかったのでしょう。
というか、立派な屋敷を建てることは三成にとっては必要のない無駄であったということなのでしょうか。
屋敷など住めればそれでいい、そこに無駄な金をかけるなど、主君に仕える身とし必要などない。
ここにある意味、三成の徹底した合理性が垣間見えます。
実は、三成の居城佐和山城にも同様な話が伝わっており、佐和山城は外見は立派であったが、内部は荒壁であったと言います。
ただ、ここでも応接間は立派だったようで、襖絵もそれなりのものが描いてあったようです。
三成はそれなりに節約し蓄財をしていたようですが、それを関ヶ原の戦いですべて使い切ったようです。
天下分け目、ここ一番のときに三成はすべての財産をつぎ込み、家康に立ち向かっていったのです。

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