佐和山の思い出4

佐和山城の大手といえば、ある一つの出来事を思い出す。
それは慶長四年に起こった加藤清正、福島正則ら七将による三成襲撃事件により、三成が佐和山に引退させられた時のことである。
家康の命で三成は奉行筆頭の座を追われ、居城佐和山に引退させられたが、三成はそれに抵抗することもなく素直に応じた。
しかも、嫡男の隼人正を家康のもとに送り恭順の姿勢を示した。
あれほど家康を敵視していた三成である。
そこに何らかの思惑があるのではないかと考えるのは家康でなくとも自然なことであったろう。
そこで家康は家臣の柴田左近を佐和山に遣わして様子を探らせた。
柴田左近は佐和山の三成に不穏な動きはないか、佐和山城が不自然な修築がなされていないか、そして佐和山城の造作や縄張りなどつぶさに観察して家康に報告したものと思われる。
三成は左近に弁当を遣わしたり、風呂に入れたりして歓待し、直接会って談笑などもしたようである。
さらには、豪華な刀などをお土産として持たせている。
まさに賓客としての対応で、きっと機嫌よく、にこやかに応対したのであろう。
その左近を迎えたのが佐和山城大手門であった。
大手の様子は「金の御門に八重の堀」と謡われたほどで、大手門は金の金具で装飾された豪華なものであったろう。
左近は大手から視界に入る佐和山城の造作をつぶさに観察したことであろう。

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