佐和山の思い出8

もう随分昔のことになりますが、石田三成の子孫であられる石田多加幸氏から興味深いお話を聞いたことがあります。
それは江戸時代、彦根城築城に伴う佐和山の破城についてのことですが、石田氏が仰るには佐和山城を壊すとき、廃材を佐和山の谷(女郎ヶ谷か?)に落としたのではないか。
佐和山の谷には瓦や櫓や塀などに使われたと思われる建物の廃材の破片がたくさん落ちていたというのです。
詳しい場所を聞かなかったので自分の目で確かめることはできませんでしたが、興味深いお話です。
佐和山城は関ヶ原合戦で大破した後修築され、彦根城が完成するまで井伊氏の城として使われていたことは間違いありません。
事実、井伊直政は関ヶ原の翌年佐和山城内で亡くなっています。
井伊氏が佐和山城をどこまで修築したのか、新城が出来るまでかなりの箇所を修築したのか、それとも一時的に居住できる程度にしたのか、それは分かりません。
ですが、その後、佐和山城を壊す際、建物の廃材を谷に落としていること、佐和山城には石垣がほとんど存在していないこと、また、彦根城には佐和山城の門や櫓を移築した形跡がないことなどから佐和山はすさまじい破城が為されたことは間違いありません。
それは裏を返せば、佐和山城は最後まで石田色を色濃く残していた、つまり井伊氏の佐和山城の修築は部分的なものであったことを示しているということなのでしょうか。
いつも思うのですが、佐和山の琵琶湖に面した部分の山頂下がはげ山のようになっているのが分かります。
これは、ここからも石垣の石や建物の廃材を大量に捨てた跡なのかもしれません。
また、佐和山の山頂は遠くから見てもかなり平らになっていることが分かります。
ここには本丸があり、御殿や天守が建っていたところなのですが、建物が壊され、石垣が壊されたときに、削られたことが分かっています。
まさに、佐和山の破城は山を削るほどのすさまじいものだったのです。

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