佐和山での思い出3

大手門跡が残っているところは必然的に佐和山城の大手になるが、そこは街道に面した場所で、琵琶湖側は搦め手ということになる。
しかし、琵琶湖は京都までの重要な水路であり、水運の要であったことを考えれば、決して搦め手とはいえない要素もある。
事実、安土城が完成する前は、信長は佐和山城に滞在することが多かったが、それは琵琶湖の水運を利用するためであったと思われる。
つまり、佐和山城は北國街道、中山道、そして琵琶湖という交通路に恵まれた立地上にあった城であったとうことになろう。
佐和山城は琵琶湖を行く船からも、街道を行き交う人々からも仰ぎ見られる城であった。
「三成に過ぎたるもの」と言われた佐和山城、それは豊臣政権の仰ぎ見られる城として華麗で勇壮でなければならなかった。
見上げるような高い石垣、華麗な天守、櫓、御殿などは当然あったろう。
山上本丸のの天守閣があったと推定されるところは、まさに大手の真正面に当たる。
当時は大手からそびえ立つ華麗な天守が一番いい角度で見えたはずである。
天守は言い伝えによると五層、神社の古図によれば三層ということになるが、大手からはより高く聳え建って見えたことだろう。
ここにも計算し尽された天守の風景があった。
佐和山城は見せる城でもあったのである。

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