川中島合戦雑記38(謙信の挑発に乗らなかった信玄)

信玄は謙信から「実の父親を追放し、浪人乞食の身に追いやっている」という非難を受けているが、信玄の父信虎は今川家では客分としての扱いを受けており、特に不自由な生活を強いられてはいなかったようである。
さらに、信玄も今川氏には父を面倒見てもらうためのそれなりの資金をその都度渡していたようで、決して追放しっぱなしで乞食にしていたわけではない。
そういう意味では、謙信自身もすでに家督を継いでいた実兄を隠居させて家を継いでいるのであり、自らは「兄が病弱だったので、やむを得ず家を継いだ」と言い訳をしているが、これとて信玄が非難しようと思えばできたかもしれない。
しかし、信玄はそのように謙信を非難することも、自分を弁護することも一切してはいない。
謙信の挑発に乗ることなく、淡々と謙信の動向を見極め、それに沿って現実的で有効な手段を講じている。
信玄はその意味でも大人の政治家、力ある実務家という印象である。
そんな彼の胸には、常に飢饉・疫病に苦しむ甲斐の民衆の現状が投影されていたことであろう。
甲斐は内陸の国であり、食料資源に乏しく、周辺諸国から封鎖されれば生きる糧を失ってしまうという一面をもっている。
戦国の甲斐の国の現状は外交努力だけでは解決などはできなかったといえる。
信玄が信濃を侵略し、海のある越後を目指したのも、その最も大きな理由は飢餓の克服にあったと考えざるを得ない。
その解決は一身に信玄の肩にかかっていたのである。

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