川中島合戦雑記29(善光寺の争奪3)

守護小笠原長秀の暴挙に怒った村上氏と川中島の中小の領主の集団である大文字一揆は長秀に反旗を翻して兵を挙げ、小笠原軍を蹴散らしてとうとう小笠原長秀を信濃から追い出してしまった。
この事件で長秀は善光寺を支配するどころか逆に信濃守護を追われ、京都に落ちて行くことになった。
このとき守護小笠原氏と戦った村上氏は文明年間(一四六九~八七)にはその勢力を川中島にまで伸ばしていたが、その前には奥信濃に勢力を持つ高梨氏が大きく立ちはだかっていた。
『王代記』によると、村上・高梨両氏は善光寺の支配をめぐって対立し、明応四年(一四九五)に高梨政盛は何と善光寺に火を放って焼き、それに乗じてその本尊である善光寺如来を強引に奪って本拠地中野の地に持ち去ってしまった。
だが、その後、高梨氏が悪病にとりつかれたため、仏罰を恐れて三年もたたないうちに本尊を善光寺に返還したという。
このように、時の権力者は善光寺に対して異常なまでの執着をもっていたことが分る。
善光寺は当時全国の阿弥陀信仰の総本山として賑わう信濃第一の都市で信濃国支配の眼目ともいうべき場所であり、ここを支配することなしに、信濃を支配したとはいえなかった。
だが、彼らが善光寺に固執したのは果たしてそれだけの理由であったのだろうか。

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