旭山城は善光寺のすぐ西にそびえる旭山山頂に築かれていた城で、そこから善光寺、さらには謙信の本陣横山城をその眼下に見下ろすことができた。そのため、謙信にとっては戦術的にも大変に目障りな城であった。
その意味で信玄はまさに謙信の裏をかいたともいえる。
 当時の日記『妙法寺記』によると、この旭山城に信玄は兵三千人と弓八百張、鉄砲三百挺を援軍として送り込んだという。
信玄のこの戦にかける意気込みが伝わってくる。
信玄は危険を侵して武田方についた栗田氏に応え、最新兵器の鉄砲をそろえて精一杯の応援部隊を旭山城に送り込んだのである。
謙信は旭山城が何としても目障りであった。
そこで謙信は旭山城の周辺にそれに対抗する城(付城)を築いて対抗した。
武田軍と上杉軍は川中島で七月と八月に二回接触はしたもののそこでの決着はつかなかった。
しかし、それ以外は、両軍はにらみ合うばかりで特にぶつかることもなく戦線は膠着状態に陥っていた。
しかも対陣が半年と長くなったため、越後軍の陣中で喧嘩する者や勝手に帰国する者などが相次いだ。
恐らく、この軍律の乱れは越後軍の中だけでなく武田軍も同様であったろう。
半年に渡る長陣に両軍の兵士に厭戦気分は広がりストレスもたまり、収拾がつかないほど限界にきていたのである。
だが、それでも両軍ともどうしても一歩も動けない事情がそこにはあった。
それは、この川中島から先に撤退すれば、残った敵に善光寺を奪われる可能性が十分にあったからである。
そのため、両軍はどうしても撤退できなかった。