善光寺の歴史は古く、境内から出てきた最も古い瓦が法隆寺形式といわれるものであるころから、その創建は少なくとも奈良時代以前にはさかのぼるものと推定されている。
善光寺は当初は大陸から帰化人が持って来た仏様を安置する寺として出発したようで最初は無宗派であったと思われる。
しかし、十一世紀後半から十二世紀前半にかけて善光寺が天台宗寺門派の本山である園城寺(三井寺)の末寺となってからその名が全国に知れ渡るようになった。
 このとき、善光寺の本尊である善光寺如来は阿弥陀如来とされ、しかも生身の阿弥陀仏如来であると宣伝されたため、ありがたい仏様として日本全国からたくさんの参詣人が訪れるようになった。
しかし、さらに善光寺信仰に拍車がかけられたのは、源頼朝や北条氏といった鎌倉幕府の中心者が善光寺を尊崇したためでもある。
『吾妻鏡』によれば、善光寺が治承3年(1179)焼失したとき、頼朝は信濃の目代(国司の代官)などに命じて土木人夫を提供させている。
当時の記録『立川寺年代記』によれば、頼朝自身も建久八年(1197)三月に御家人を率いて自ら善光寺に参詣したと伝えられている。
源氏政権の後を受けた鎌倉幕府執権の北条氏も善光寺に熱い信仰を寄せ、土地を寄進したりしている。
『長野市誌』によると、特に、北条一族の名越氏は自身の知行地である鎌倉名越の地に新善光寺を建立するとともに、守護をつとめていた越中国にも新善光寺を建立した形跡があるという。
北条本家である得宗家も鎌倉建長寺に善光寺如来の分身を置いていたといわれ、これによって、全国の地頭・御家人の間にも善光寺信仰は大きく広まっていったようである。
さらには、この善光寺の霊験にあやかろうと、当時、善光寺の本尊の模刻が盛んに行われ、それを安置する堂として、各地に新善光寺が建立されていった。
この新善光寺は武士層が自分の所領内に建立したものが多いとされ、少なくとも鎌倉時代に20ヶ寺、南北朝期に8ヶ寺の建立がなされたことが分かっている。
そして、鎌倉時代に入ると、当時の仏教寺院から排除されていた女性を善光寺如来が受け入れて救済するということが宣伝されていったため、女性の間にも善光寺信仰は広がり始めた。
これにより、都の貴族の女性たちも善光寺にあこがれ、正応二年(一二八九)には後深草天皇の妃であった二条なども参詣している。
善光寺には親鸞、一遍ら当時の著名な宗教者も参詣しており、このことも民衆の間に善光寺信仰が広まる大きな要因となった。
こうして、信濃の善光寺信仰は全国規模で広がっていった。