川中島合戦雑記33(善光寺本尊を持ち帰った信玄)

このような状況を見かねた駿河(静岡県)の戦国大名今川義元が両軍の仲介に入り何とか和議を結ぶことで決着がついた。 こうして、閏十月十五日、両軍は川中島から撤退した。
しかし、善光寺を支配する栗田氏が武田方についたことから大きな危機感をおぼえた謙信はこの撤退に際して、善光寺から仏像仏具の一部を持ち帰った。
謙信は後にこれを安置するため、越後府内に浜善光寺を建立することになるのだが、謙信はこのとき善光寺の本尊である善光寺如来は持ちかえることができなかった。
後に善光寺大勧進の重栄が著した『御遷座縁起』によれば、善光寺如来は弘治元年の七月三日、謙信が飯山に退いた隙をみて信玄が奪い取ったということであるが、その真相は分からない。
ただ、当時善光寺を実質的に管理していたのは栗田氏であることから、栗田氏が武田方についたとき、本尊をあらかじめどこかに隠していた可能性は十分に考えられよう。
いずれにしても、この合戦では武田・上杉両者の間で激しい善光寺の争奪戦があったことは紛れも無い事実である。
しかし、信玄とてそんな謙信の処置を指を加えて見ていたわけではない。
信玄は謙信と和睦してから半年も経たない弘治二年(一五五六)三月、善光寺背後を守る防衛線の一画である葛山城をターゲットに謀略を開始し、翌弘治三年(一五五七)の年が明けると、葛山城の攻略を開始した。
信玄は、このとき、善光寺のみならず飯綱社、戸隠社という信濃の有力寺社に一挙にその触手を伸ばそうとしていた。

タイトルとURLをコピーしました