川中島合戦雑記28(善光寺の争奪2)

戦国時代当時の善光寺は、日本の阿弥陀信仰の本山ともいうべき宗教上の聖地であり、それに伴って日本中から参拝客と大量の物資が集積する信濃第一の政治経済上の要地で市も立っていた。
ここを押さえれば、大きな経済上の利得を得ることができたことは容易に想像がつく。
かつて、室町時代の嘉慶元年(1387)、当時の信濃守護であった斯波義種は守護所を善光寺門前の平芝というところにわざわざ移しているが、これはまさに善光寺を支配するために取られた措置であろう。
しかも、平芝の背後の山には戦いの際に逃げ込むための詰の城として小柴見城、旭城が築かれ守護所の防備が固められていた。
斯波義種は善光寺周辺に城を築き、実力で善光寺を支配しようとしていたのである。
当時の信濃は守護と善光寺周辺の在地の領主たちとが善光寺の利権をめぐってしのぎをけずっており、善光寺周辺は常に軍事的に緊張をはらんでいた。
守護が詰の城として小柴見城、旭城を善光寺の背後の山に築いていたのもこのような事情があったからである。
また、善光寺の東隣にも横山城が築かれているが、この城も善光寺防衛のために当時の守護方が築いたものと考えられている。
善光寺の支配は斯波氏の後に守護となった小笠原長秀も強力に推し進めようとしていた。
小笠原長秀は応永七年(一四〇〇)守護に就任すると、真っ先に善光寺に入った。
長秀は何と善光寺そのものに守護所を構え、そこで政務を取ろうとしたのである。
長秀は善光寺を支配するために、そこに居座ったともいえる。
だが、長秀は善光寺を支配したいがために、当時善光寺平(川中島)にまで勢力を伸ばしていた村上氏らの既得権を強引に侵害していった。

タイトルとURLをコピーしました