川中島合戦雑記34(善光寺から戸隠へのルート葛山城を落とした信玄)

信玄がターゲットとした葛山城は善光寺の背後にあって、善光寺から戸隠を経て越後へ通じる街道を押さえる要衝に築かれおり、ここを抜けば、飯綱・戸隠社はもとより、越後への侵入も可能になり、謙信に大きなダメージを与えることは必定であった。
信玄は雪に囲まれた越後からの援軍がまったく望めない真冬を選んで、信玄は葛山城を力で攻め、落城させた。
この葛山城の落城により、葛山の北にある飯綱権現の祠官千日太夫も信玄に降伏した。
そこで、信玄は三月千日太夫に飯綱山支配を安堵し、武運長久を祈願させたのである。
だが、その先の戸隠社の衆徒は信玄に従わなかったため、武田軍は葛山より戸隠顕光寺に攻め入った。
このため、戸隠三院の衆徒は難を逃れて、越後国境関山に一時所を移していった。
当時、善光寺・飯綱・戸隠はひとまとまりの霊場として考えられており、戸隠信仰は古く平安時代末には京はもちろん東北地方にまで広がっていた。
また、戸隠の別当も栗田氏がつとめていたことから、善光寺・戸隠は深い関係にあったものと考えられる。
信玄が葛山城を落とした背景には、葛山から戸隠へのルートを制圧して、善光寺に続いてこの三つの寺社を支配するという意図があった。
信玄は、この合戦で葛山城を落とし、飯綱、戸隠まで攻めこむと、善光寺に残っていた本尊、善光寺如来をはじめ数々の宝物をそっくり甲斐に持ち帰ったのであった。 

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