そのため、善光寺のもつ大きなきな影響力を背景に、善光寺の付近には後庁という信濃国府の支庁が置かれるようになり、政治的色彩を帯びるとともに、この地は北信地方の中心地ともなっていったのである。
このように、善光寺は全国の阿弥陀信仰の総本山として尊崇を集め、いつしか全国からの参拝者が訪れる聖地となっていった。
そこは同時に、信濃の中において繁栄を極める国府と並ぶもう一つの中心地であった。
その意味で、信濃全体を支配するには、この善光寺の支配は避けて通ることはできなかった。
かつて、信濃の歴代の守護が善光寺の周辺に守護所を置き、城を構えてまでも善光寺に固執したのも、ここを支配したいがための苦肉の策に他ならなかったのである。
上杉謙信が武田信玄の信濃支配を阻むためには善光寺を渡すことなどできない。
謙信が善光寺の隣の横山城を本陣としたり、善光寺の背後の山に城を取り立てたのも、その理由からであったと考えられる。

弘治元年(一五五五)四月、武田信玄は川中島に出陣した。
この出陣の目的は善光寺別当、つまり事実上善光寺を支配していた栗田氏が信玄に呼応して旭山城に兵を挙げたからである。
これに対して、謙信も川中島に出陣し、善光寺のすぐ東、かつて守護方の城であった横山城に本陣を置いた。
まさに善光寺を本陣としたのである。
旭山城は善光寺のすぐ西にそびえる旭山山頂に築かれていた城で、そこから善光寺、さらには謙信の本陣横山城をその眼下に見下ろすことができた。
そのため、謙信にとっては戦術的にも大変に目障りな城であった。その意味で信玄はまさに謙信の裏をかいたともいえる。