佐和山城下「聞書」の謎11

長浜は秀吉が織田信長から初めて大名に取り立てられた記念すべき地で、長浜城も秀吉が最初に築いた城である。
ただ、長浜城そのものはその後山内一豊、内藤信成と城主が代わり、そのつど、城は修築され秀吉時代の姿を変えていった可能性はある。
しかし、城の基本的な構造、さらには城下町長浜の町作りをしたのは秀吉であるため、長浜の町自体はきわめて秀吉色が強く、徳川家としても城を潰して秀吉色を一掃する必要があったことはいうまでもない。
そう考えると、佐和山と並んで長浜は破城の有力地であり、また、彦根に近いことから、その石垣の石はもとより、門、櫓などの旧材を運ぶのには適している。
事実、彦根城の天秤櫓、三層櫓などは長浜城から移築されたと伝わっており、長浜城を壊し、その旧材が彦根築城に使われた可能性は高い。
現在、長浜城を訪れてみると、城跡自体はほとんど旧状を留めてはいない。
だが、江戸時代の長浜の絵図を見ると、城を取り巻く内堀や外堀の一部は江戸時代にはまだかなり残っていたようであり、天守閣の跡と伝わる微高地もしっかりと描かれている。
この堀跡は、近年、琵琶湖湖岸の道路整備がなされる以前まで残っていたようで、かなり大きな堀であったようである。
そのことから、近年までは城跡を示す遺構はよく残っていたといえる。
長浜城では、確かに破城は施されてはいたが、城跡そのものを消滅させるほど徹底的なものではなかったようである。

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