佐和山城下「聞書」の謎12

ただ、私が長浜城跡を訪れて不思議に感じたことは、城跡に、まだ、石垣の残石、それも結構大きな石で石垣に十分に使えそうな石がたくさん残っているということである。
さらには、城跡の発掘調査でも石垣の土台石である根石が何百メートルにもわたって発見されている。
この事実は、彦根築城に際して、長浜城の石垣の石が根こそぎ持っていかれたわけではないことを示している。
彦根築城に関しては、大量の石が必要であったことはいうまでもないが、このようにアバウトな形で石が長浜城に残っているのはどうも腑に落ちないところがある。
となると、彦根城の石垣の石はそのほとんどが佐和山城からのものなのであろうか。
そう、考えれば、佐和山城に石垣の石がまったくといっていいほど見当たらなかったのも一応は納得できる。
歴史研究家の海津栄太郎氏は、彦根城で最初に完成したと伝わる「鐘の丸」の石垣、さらには天守閣の石垣には加工度の低い自然石が使われていることを指摘している(城八十号『佐和山城』)が、これらの事実も古城からの石の転用を裏付けていると考えられる。
江戸時代に入ると、石垣の加工技術が進んで、自然石をそのまま使うケースは少なくなってきたが、秀吉時代の城は自然石をそのまま使うケースが多く、このことから、彦根城の中心部に自然石が多く使われている事実はまさに他の城、とくに豊臣系の城の石垣を転用した可能性が大いに考えられる。
しかし、あの彦根城の石垣の膨大な数の石が果たして長浜城と佐和山城だけで賄いきれたのかというとこれも大きな疑問が残る。もし、そうだとしたら佐和山城は全山が大量の石垣で覆われていた石作りの要塞であったことになる。

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