佐和山城下「聞書」の謎14

また、彦根城の建物には、大津城や長浜城からの移築の伝承はあるが、佐和山城からの移築に関しては全く伝承がない。
これも考えてみれば、不思議なことである。
佐和山城は彦根城に一番近く、さらには彦根城が完成するまでは井伊氏は佐和山城にいたわけであるから、当然、そこにあった櫓や門、屋敷などの旧材は彦根城に使われた可能性が一番高いはずである。
事実、本丸の入り口にある太鼓櫓門は、佐和山城の谷間にあったものが移築されたとの推定もなされている。
これに関して、海津栄太郎氏は佐和山城の旧材は独立の構造物としてはそのまま使われなかったのではないかとしている。
つまり、それらを解体して、建築物の部材として門扉などに使ったのではないかというのである。
それは、旧石田色の一掃のためで、佐和山城の破却が領民の旧領主石田三成に対する思慕を断ち切る目的で行われたためにそういう形になったのではないかと推察されるのである。(海津栄太郎『彦根城』)
つまり、井伊氏にとって、佐和山城の建物をそのまま彦根城に移築して使用することは石田色の一掃にはならず、そのため、原形を留めなくするため、わざわざそれらを解体して部材としてどこかに使用したということなのである。
これをもってしても、井伊氏は佐和山城を破壊して、石垣の石をすべて根こそぎ彦根城に持ち去っただけではなく、そこに残されていた建物までも解体して、石田色の徹底的な排除、つまり歴史上からの抹殺を行おうとしていたのではなかろうか。
近年、彦根城石垣の裏込めに佐和山城の石垣や瓦が砕かれて使われていたことが判明したが、まさに、そこに、佐和山城を地上から抹殺しようとする意志を見ることができる。

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