佐和山城下「聞書」の謎9

彦根城は慶長九年(一六〇四)から築城工事が開始された。
城は、伊勢桑名の本多氏、伊賀上野の筒井氏、若狭小浜の京極氏、越前福井の結城氏ら近江国周辺の七ヶ国の大名が動員される、いわゆる天下普請で行われ、幕府からも三名の奉行が派遣されるという、まさに幕府主導で行われた。
これ一つとっても、彦根城を家康がいかに重視していたかが分かるというものである。
『井伊年譜』によれば、「惣テ石垣ノ石櫓門等迄、佐和山・大津・長浜・安土ノ古城ヨリ来ル」とあり、彦根城は周辺の城の旧材をもって築かれたことをうかがわせている。
これによれば、彦根城はその周辺にあった織田・豊臣系城郭を壊し、その旧材を用いて築かれたということになる。
つまり、それらの城を破城にすると同時にそれらを壊す際に出た旧材を使用して城を築くという一石二鳥を狙ったのである。
前政権の築いた建造物を壊して、その資材を次の政権が自らの建造物に使う。
これは遠く、紀元前のエジプト王朝のファラオの時代からあったと言われているが、それは前政権を否定し、次の政権が新政を始めることの象徴でもあったのであろう。
ちなみに、私は佐和山はもちろんのこと、『井伊年譜』にある大津・長浜・安土のそれぞれの城跡を訪れて見た。
だが、安土城は確かに天守閣の土台である天守台などに一部破城の痕跡が指摘されてはいるものの、今でも安土山全体に累々と石垣が残っており、石垣の石が彦根城に使用されたとはとても思えない。

タイトルとURLをコピーしました