佐和山城下「聞書」の謎10

大津城はかつての近江守護京極氏の流れを受け継ぐ京極高次の居城で、高次の妻のはつは豊臣秀頼の生母淀殿の姉、高次の姉も秀吉の側室になるなど高次と秀吉との関係は深いものがあった。
しかし、関が原合戦時、高次は家康方についたため、大津城は西軍のターゲットとなり、立花宗茂らの攻撃を受けて大破していた。
その大津城は現在の滋賀県大津市の浜大津港付近にあったとされており、その石垣の一部が湖岸に残ってはいるものの、今ではほとんど城跡としての形跡を留めてはいない。
それは、大津城のすぐそばの琵琶湖湖畔に、彦根城より早い時期、慶長六年(一六〇一)に新たに膳所(ぜぜ)城が築かれるときに、大津城の石垣がそっくりそこに転用されたとされているからである。
そのため、大津城の石垣の石も彦根城に使われた可能性は低い。
なお、大津城の天守閣の資材は彦根城の天守に転用されたといわれており、天守の解体工事のときに、それを裏付けるような旧材の使用が認められている。
となると、彦根城の石垣は長浜城と佐和山城からもってきたということになる。
確かに、双方の城跡に共通するのは、石垣などはほとんど残っておらず、石垣の残石と思われる石が散乱していることである。
これだけを見ると、石垣の石はどこかに持ち去られた可能性は高い。

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