佐和山城下「聞書」の謎8

直政はこの築城計画が実行される前に、関が原で受けた鉄砲疵と持病の悪化で、佐和山入部の翌年の慶長七年(一六〇二)に亡くなった。
直政の後は、嫡子の直継が継いだが、まだ幼少であったため、家老の木俣土佐が慶長八年(一六〇三)伏見城に赴き家康に謁見し、磯山への築城の意向を伝えた。
木俣が家康に佐和山、磯山、彦根山の絵図を示したところ、家康は「磯山はよい場所とは思えない。佐和山城の西南にある金亀山は山麓が湖水に洗われる要害の地で、磯山よりも勝っていると聞いているので、金亀山に城を築くべきである」と言ったという。(『東照宮御実紀』)
これをみると、まさに、家康の鶴の一声で金亀山(彦根山)に城が築かれることに決まったという感じがする。
だが、一方、『木俣土佐紀年時記』によれば、木俣自身が築城の地としては彦根山が最良の地であることを家康に説明し、家康がそれを了承し、築城が決まったとしている。
彦根築城が決まった慶長八年、家康は朝廷より征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いて、武家政権への一歩を踏み出した。
しかし、大坂城には依然として豊臣秀頼が健在であり、家康が完全に天下を取るには、まだこの先、いくつもの障害があった。
その一つが九州、中国地方に多く領地をもつ豊臣系大名の存在である。
彼らは、三成に対抗し関が原では家康に従ったものの、秀頼が健在である限り家康に完全に従うかどうかは分らなかった。
それどころか、豊臣家の出方次第では、いつ徳川家の敵になるかわからなかった。
そのため、西国大名を監視し、大坂に睨みをきかすために、この彦根の地に徳川系の堅固な城を築く必要があった。
まさに、その城は井伊家の居城というだけでなく、家康自身にとっても重要な意味をもつものであった。
そのためには、城は一刻も早い完成が待ち望まれた。

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