2020-04

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状況次第の毛利軍

さらに、書状には、「重々安国寺より仰せ上げられ候」とあり、それらの情報を安国寺恵瓊が取集し、大坂の輝元へ報告していたことが分かる。 ここから、南宮山への布陣は輝元の同意があり、一方で輝元は諸将の離反の情報をつかもうとしていたことも分かる。...
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南宮山は菩提山城に代わる場所か?

三成にとって、南宮山への布陣は自らの当初の構想にはない想定外のものであった。 確かに位置的には菩提山に代わる場所のようにも見えるが、三成が不信感をもった理由の一つには、南宮山山頂の大将毛利秀元と山麓の吉川、安国寺らの部隊、そして周囲の栗原...
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菩提山城は毛利軍のために用意された?

菩提山城の本丸の虎口に設けられている儀礼的・装飾的な馬出は身分が高く、大軍を率いてくる人物が入城するためのものであると先に述べたが、毛利輝元の養子で毛利軍の現地指揮官として大軍を率いる秀元ならそれにふさわしい。 現に、秀元が布陣した後に構...
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菩提山城へ入るべき部隊は毛利軍か?

だが、三成は先の9月12日付書状の中で、「(南宮山の)陣所は垂井の上の高山に、山取りの用意に候。彼山は人馬之水も之有る間敷き程の高山にて、自然之時は、掛け合いにも、人数の上り下りも成さぬほどの山にて候」と毛利らの布陣に不信を抱いていることは...
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三成の構想を妨げた三つの出来事

しかし、ここにきて、その三成の構想を大きく妨げる出来事が発生した。 その一つが、竹中重門が徳川方に付いたことにより菩提山城を失ったこと、そして、三成が築いた関ヶ原での防衛線の情報が同じく竹中を通じて、徳川方に筒抜けになってしまったこと。 ...
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要所要所に城を築いていた大坂方

7月26日付三奉行が中川秀成に宛てた書状では、「輝元御人数弐万余勢田・守山之間に陣取」とあり、8月1日付で黒田如水が同じく中川秀成に宛てた書状には「瀬田に中国衆城を拵え」とあり、毛利軍がこのころには瀬田に城を築いていたことが分かる。 ここ...
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菩提山城、松尾山城の構築はいつ?

菩提山城では、石垣や豪壮な御殿などは構築されず、山を削るだけの普請ではあるが、あれだけの土木工事である。 大量の人海戦術で昼夜兼行短期間に築城を終わらせるとしても2,3週間は見るべきであり、仮に8月当初に完成していたと仮定すると、毛利が大...
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菩提山城はいつ築かれた?

『当代記』によれば、9月15日の合戦で動かなかった毛利秀元や長曽我部など2万5千の兵は伊勢に向かうため「こうづ駒野に居陣す」とあり、そこは伊勢からの途中ルートであったことが分かる。 ここで重要になるのは、「御番所」で、これらの城は大垣と佐...
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三成の目論見

三成は、当初、大垣城を拠点として、岐阜、竹ヶ鼻、犬山の城で家康軍を阻止する目論見であったが、これも崩れた以上、次の手を考えなければならなくなった。 しかし、三成自身も当初から岐阜の先は大垣のみで防ぐことなど考えてはいなかったようである。 ...
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菩提山城、関ケ原の陣城普請に関わったのは竹中重門の領民たちか

もし、三成が垂井、関ケ原に城や陣地などの普請工事を行うには、竹中重門が支配する村々の領民の労働力が必要となり、それは領主竹中重門に命じてやってもらうしかない。 菩提山城、玉の城山などは竹中の領地内にあり、その普請には領主の竹中、そしてその...
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