菩提山城へ入るべき部隊は毛利軍か?

だが、三成は先の9月12日付書状の中で、「(南宮山の)陣所は垂井の上の高山に、山取りの用意に候。彼山は人馬之水も之有る間敷き程の高山にて、自然之時は、掛け合いにも、人数の上り下りも成さぬほどの山にて候」と毛利らの布陣に不信を抱いていることは確かである。
ここから、南宮山への毛利の布陣は三成が意図したものではなかったことが分かる。
そこは三成の書状にある「伝々」の城でも「何れの御番所」でもない、予定にない場所であったということになる。
ここから、三成は毛利軍に南宮山ではない、別な場所に布陣することを望んでいたことが分かる。
それでは、三成は伊勢から帰還した彼らをどこに入れるつもりであったのだろうか。
三成には伊勢から帰還した大部隊である彼らを垂井の防衛のため、菩提山に布陣させるという構想があったのではなかろうか。
ここでは、岡山の徳川軍の動きを阻止するために、垂井の隘路を押さることが急務であったはずで、菩提山と大垣城とで挟み撃ちにする形で徳川軍の進軍を阻止することができる。
(菩提山城本丸腰曲輪)

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