菩提山城はいつ築かれた?

『当代記』によれば、9月15日の合戦で動かなかった毛利秀元や長曽我部など2万5千の兵は伊勢に向かうため「こうづ駒野に居陣す」とあり、そこは伊勢からの途中ルートであったことが分かる。
ここで重要になるのは、「御番所」で、これらの城は大垣と佐和山、もしくは大坂間の防衛に深く関わる城とも考えられる。
つまり、「何れの御番所」とは大垣と佐和山、もしくは大坂の間にある陣城や構えであり、そこに毛利の主力軍を集中し、決戦に出ようとしていたとも考えられるのである。
そこから、垂井の菩提山城、関ヶ原における松尾山城、玉の城山は三成の書状にいうところの「御番所」といえるのではなかろうか。
それでは、三成はいつからそれらの陣城や構えを築いていたのかということが問題になる。
少なくとも、岐阜城が落城して、あわてて、それらを築いたとは考えられない。
菩提山城の場合を考えれば、竹中重門が犬山城に入るときには完成していたものと思われる。
というのは、8月24日以降は垂井、関ケ原に放火されたことから、垂井・関ケ原の領民たちがいなくなったことが推定され、その後は普請など行える状況にはなかったものと考えられるからである。

(菩提山城二の曲輪)

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