菩提山城、関ケ原の陣城普請に関わったのは竹中重門の領民たちか

もし、三成が垂井、関ケ原に城や陣地などの普請工事を行うには、竹中重門が支配する村々の領民の労働力が必要となり、それは領主竹中重門に命じてやってもらうしかない。
菩提山城、玉の城山などは竹中の領地内にあり、その普請には領主の竹中、そしてその領民が関わった可能性は高い。
ここから考えられることは、竹中は三成が家康を迎え撃つために垂井、関ケ原に構築した陣城や構えなどに精通している可能性が高いということである。
竹中の離反は、それがすべて徳川方に筒抜けになるという事態を招いたことになる。
これは三成にとって大変に大きな誤算であったに違いない。
ただ、一方で、竹中は今後、自らの領地、垂井・関ケ原が両者がぶつかり合う戦場になっていくことを想定しないわけにはいかなくなった。
徳川軍は、8月24日に岡山に着くや、竹中の領地である垂井から関ケ原にかけて荒らし、放火していった。
それは、三成らの大垣から関ヶ原方面への移動を阻止するものであったが、そのため、それらの地から領民は去り、別の場所に避難するしかなくなっていった。
ここに、竹中は領主として領民を守ることができなくなった。
それは、竹中にとってそれは重いリスクであったことであろう。

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