菩提山城では、石垣や豪壮な御殿などは構築されず、山を削るだけの普請ではあるが、あれだけの土木工事である。
大量の人海戦術で昼夜兼行短期間に築城を終わらせるとしても2,3週間は見るべきであり、仮に8月当初に完成していたと仮定すると、毛利が大坂城に入る7月半ばころには、工事を始めなければ間に合わない計算になる。
垂井の菩提山、関ケ原の松尾山城、宇喜多陣、そして玉の城山らは、関ケ原で徳川軍を迎え撃つことを早くから想定して、7月中に地元の領主竹中重門とその領民たちの力を借りて工事を行ったのではなかろうか。
六月十日付来次氏秀書状には「佐和山普請巳下諸構えにて引籠候」とあり、三成は家康が上杉征伐に大坂城を出る以前の6月10日時点ですでに佐和山城の普請とそれに伴う様々な防御施設を構築していたことが分かる。
このことからも、三成は我々の想像するよりもかなり早い時期から動き出していたことが分かる。