要所要所に城を築いていた大坂方

7月26日付三奉行が中川秀成に宛てた書状では、「輝元御人数弐万余勢田・守山之間に陣取」とあり、8月1日付で黒田如水が同じく中川秀成に宛てた書状には「瀬田に中国衆城を拵え」とあり、毛利軍がこのころには瀬田に城を築いていたことが分かる。
ここから、瀬田の築城は7月中に行われた可能性が高い。
また、同書状には「伊勢江州之堺目ニ城を拵え」とあり、8月1日には大坂方は伊勢と近江の境にも城を築いていたことが知られる。
同書状には、この城の大将には大谷刑部を付けることになっていると記されている。
その後に「内府御上国と見え申し候」とあることから、これらの城は家康の西上に備えたものであることが分かる。
さらに、8月22日付佐々正孝が出羽の秋田実季に宛てた書状の中によれば、大谷吉継らは、前田利長の軍勢を防ぐべく越前木の芽峠に砦を築いて、小早川秀秋を城主として守らせるつもりであり、砦は木下勝俊、鍋島勝茂、毛利吉政ら一万の兵が築いたとされている。
一万の兵が動員されて築かれた砦は、決して小さいものではなかったろう。
以上のことから、大坂方は7月から8月にかけて要所要所に城を築いて徳川軍に備えていたことが分かり、菩提山城、松尾山城、玉の城山らもその一連の流れの中で築かれたものではなかろうか。

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