菩提山城は毛利軍のために用意された?

菩提山城の本丸の虎口に設けられている儀礼的・装飾的な馬出は身分が高く、大軍を率いてくる人物が入城するためのものであると先に述べたが、毛利輝元の養子で毛利軍の現地指揮官として大軍を率いる秀元ならそれにふさわしい。
現に、秀元が布陣した後に構築したと思われる南宮山の山頂入口には土塁と浅い堀切で装飾された唯一の虎口が存在している。
虎口というのは、敵を防ぐための重要な城の防御空間であるが、南宮山のものは、小規模、簡素すぎてとても敵を防ぐようなものではない。
南宮山の虎口も身分高き人を入れるために特別に用意された曲輪の入口とでもいうべきものであったのではなかろうか。
それは菩提山城も同じであった。
しかし、菩提山城は竹中重門の背信により、徳川軍の手に落ちたため、そこへの布陣は不可能になり、秀元は結果的に南宮山に布陣することになったのではなかろうか。
確かに、ここも垂井の隘路を押さえるという軍事上の要地には変わりはない。
もし、ここに、毛利の大軍が居座ったら、背後に大垣城もあり、岡山の徳川軍の関ヶ原への進軍は容易にはできないことになろう。
しかし、三成にとって、南宮山への布陣は自らの当初の構想にはない想定外のものであった。

タイトルとURLをコピーしました