南宮山は菩提山城に代わる場所か?

三成にとって、南宮山への布陣は自らの当初の構想にはない想定外のものであった。
確かに位置的には菩提山に代わる場所のようにも見えるが、三成が不信感をもった理由の一つには、南宮山山頂の大将毛利秀元と山麓の吉川、安国寺らの部隊、そして周囲の栗原山の長曾我部、長束の部隊との間にはスムーズな連絡が取りにくいことがある。
実際に登ってみると分かるが、南宮山山麓から山頂に行くには急峻な山道を約一時間登らなければならず、そこには大変な時間的ロスが生じる。
現在のように携帯電話や無線がない時代である。
そこでは完全に山頂と山麓とが分断されており、緊急の事態に迅速な対応などはできない。
さらに、南宮山は山頂のみが削平されているが狭く、そこには大将毛利秀元と重臣たち合わせて20人ほどしか入れない。
途中には曲輪を設けた形跡はない。
そこでは、まさに、山頂に大将毛利秀元が隔離されたような印象を受けるのである。
この点について、9月12付毛利の大坂留守居役である益田元祥書状によれば、「この地雑説の様子は先刻重々安国寺より仰せ上げられ候」と大坂方に付いていたこの地の領主たちが離反しているとの噂があること、「内府御人数着くまでは何なる沙汰もこなたには御座なく候つる」と南宮山への布陣は家康到着を睨んだものであることが述べられている。
書状にいう離反したこの地の領主たちの中には当然竹中重門が含まれていたものと思われる。

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