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月別アーカイブ: 2020年4月

岡山の陣を移す意思を持たなかった?家康

家康は岡山に入ると、そこから大垣、そして南宮山を見たという。 家康は、目前に敵がいることを実感すると同時に岡山の防備の薄さを実感したはずである。 しかし、家康は岡山の陣城を移す意志を持たなかった。 家康は、岡山に長く留ま …

家康、本陣岡山に到着

9月11日、家康は清州城に到着した。 家康はここ清州城で中山道を行軍中の秀忠軍3万5千を待つ予定であった。 秀忠が率いている3万5千は徳川本隊で、そこには大久保、本多、榊原ら徳川家を代表する歴戦の武将が兵を率いていた。 …

毛利輝元の出陣を警戒した家康

家康としても、毛利輝元の出馬だけは何としても阻止しなければならなかった。 もし、輝元が大坂の本隊を率いて出馬するようになれば、その先頭に秀頼がいる可能性も排除できない。 秀頼が出馬すれば、福島はもちろん浅野、池田、黒田も …

関ケ原の隘路を押さえた大谷吉継

京極高次の背信が明らかになった9月3日、大谷吉継は関ヶ原山中村に入った。 この地は中山道が両側を山と川に挟まれた隘路であり、大谷はここを押さえるために、セオリー通りこの地に布陣したのであった。 同日、宇喜多秀家も伊勢から …

大垣城水攻めはパフォーマンスか?

9月1日、家康は真田信幸、堀直寄に送った書状の中で「大垣には石田、島津、宇喜多、小西が籠っており、すぐに取り巻き水攻めにするため出馬する」とし、その日、江戸を立った。 大垣城は平地に築かれ、周囲には低湿地が多いため、水攻 …

大津開城

同じく、『慶長記』によれば、京の町人共は大筒が撃ち込まれ、それに悲鳴をあげて逃げ出す城内の様子を重箱持参で、三井寺の観音堂で日々見物していたという。 彼らは、まるでショーでも見るような感覚でそれを見ていたのであろうか。 …

大津城でのすさまじい攻防

立花家の記録である『立斎旧聞記』には「築山をつき、井楼を上げて、大筒を以て夜日の境もなく攻めたりけり。又、高観音山より大筒を以て緊く打ち懸けければ、矢倉も所々打ち破られ、塀は籠の目の如くになりて拒ぎ兼ねてぞ見えにける。」 …

大津城の攻防2

城に帰還した高次は城に強引に入城しようとして、それを阻止する毛利軍と争いになったが、城に入ることに成功し、そこで籠城した。 籠城の兵は三千ともいわれているが、これにより、毛利軍は城を力攻めし、奪還するしか術はなくなった。 …

大坂方の番城になる予定であった大津城

大津城は伏見、大坂への入口にあり、しかも琵琶湖の水運を通して北国からの物資が集積される湖上交通の要所に築かれた城で、毛利軍は勢田と同様にこの城を押さえ、ここに在番の部隊を置く構想であった。 その大津を領する京極高次は当初 …

大津城の攻防

9月12日付書状で三成は「大津の儀、去とては、此の節、根をたやされ候はては、以来、御仕置きのさわりたるへきと存じ候」と述べ、大津城を徹底的に攻める方針であることを明言している。 大津城は佐和山から大坂へ行くための重要な街 …

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