関ケ原の隘路を押さえた大谷吉継

京極高次の背信が明らかになった9月3日、大谷吉継は関ヶ原山中村に入った。
この地は中山道が両側を山と川に挟まれた隘路であり、大谷はここを押さえるために、セオリー通りこの地に布陣したのであった。
同日、宇喜多秀家も伊勢から帰還し、大垣城に入った。
これにより、兵数の増えた大垣城の兵は城外に出て苅田をし、糧食を確保する動きに出た。
だが、4日、大津城の攻防が始まったため、当初予定していた立花勢ら1万5千の兵が大津城で足止めを食らい、関ヶ原方面への早期の転戦が危ぶまれる事態となった。
そして、7日には伊勢から帰還した毛利秀元、長曽我部盛親ら3万の兵が南宮山、栗原山に布陣した。
『細川忠興軍功記』には「大谷刑部が北国より関ヶ原へ出てきた。池田輝政の陣所は関ヶ原の先手口になるので、忠興が陣所を交替してくれと頼んだところ、輝政と口論になった」とある。
大谷の関ヶ原布陣は、徳川軍にとっても関ヶ原での合戦が近いことを予感させた。
これに伴って、三成は毛利輝元に大坂軍の主力部隊を率いて出陣するよう要請した。

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