大津城の攻防

9月12日付書状で三成は「大津の儀、去とては、此の節、根をたやされ候はては、以来、御仕置きのさわりたるへきと存じ候」と述べ、大津城を徹底的に攻める方針であることを明言している。
大津城は佐和山から大坂へ行くための重要な街道を押さえる城である。
ここが敵に寝返った以上、大坂方としては、これを奪還しなければならなかった。
しかし、それは大津城攻撃に兵を割くことになり、関ケ原へ兵を集中する当初の構想に再び齟齬を来すものとなった。
これまでに、毛利の一隊は近江勢田を押さえ、そこに城を築き、家康の西上を阻止する構えに出ていた。
勢田は大津と並んで家康方東軍が大坂へ入る際に通過しなければならない重要ルートで大坂防衛のためにはどうしても押さえなければならない軍事拠点であった。
それに加えて、大津城は伏見、大坂への入口にあり、しかも琵琶湖の水運を通して北国からの物資が集積される湖上交通の要所に築かれた城で、毛利軍は勢田と同様にこの城を押さえ、ここに在番の部隊を置く構想であった。

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