大垣城水攻めはパフォーマンスか?

9月1日、家康は真田信幸、堀直寄に送った書状の中で「大垣には石田、島津、宇喜多、小西が籠っており、すぐに取り巻き水攻めにするため出馬する」とし、その日、江戸を立った。
大垣城は平地に築かれ、周囲には低湿地が多いため、水攻めは有効であるかもしれない。
だが、それには大変な手間と時間がかかることから現実的とはいえない。
かつて秀吉が天正18年(1590)に行った忍城水攻めの時のように、家康は地形を念入りに調べさせた形跡もなく、家康はそれを本気で行うつもりなど初めからなかったのであろう。
ただ、家康は当面の敵は大垣城であるとの認識を示したといえる。
2日、三成は岡山にいる徳川軍の背後を脅かすため、美濃揖斐郡の武士高橋修理に「郷民を集め、計略によって敵の陣後を攻撃するよう」と黄金200枚を与えて促した。(『古文書類纂』)
『関ヶ原軍記大成』によれば、近辺の百姓や浪人たちを使って美濃曽根城主西尾光教の後の瀬古村を焼きたて、西尾・水野・松下が陣所で騒動が起きるのを見て、敵を追い立てる作戦を立てていたという。
このころ、赤坂周辺で徳川軍は苅田をしており、そこに紛れ込ませて瀬古村に忍び込ませるつもりであったともいう。
じっと動かない岡山の徳川軍に対して、三成は小競り合いを仕掛けて、味方の士気を高めようとしていたのか、あるいは、目前で苅田をされたことへの報復であったのか。

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