岡山の陣を移す意思を持たなかった?家康

家康は岡山に入ると、そこから大垣、そして南宮山を見たという。
家康は、目前に敵がいることを実感すると同時に岡山の防備の薄さを実感したはずである。
しかし、家康は岡山の陣城を移す意志を持たなかった。
家康は、岡山に長く留まることなど考えてはおらず、それゆえ、高い要害性など必要なかった。
そのことで、家康は、自らの到着と同時に大坂方と一戦を交える意思を明らかにしたともいえる。
しかし、勝負はやってみなければならない。
もし、万が一、決着に時間がかかるとしたら、一度は本陣に退かねばならない。
井伊直政、本多忠勝はその場合は、本陣を菩提山城に移す構想であったのではなかろうか。
家康到着の報を受けた大坂方は、夕刻、三成の重臣島左近勝猛、蒲生郷舎らが500人の兵を率いて、岡山と大垣城の中間地点を流れる杭瀬川を渡り、徳川軍の目の前で苅田をした。
近くの牧野村に陣を布いていた中村一栄(駿府城主中村一氏の弟)はそれを見ると直ちに兵を率いて後を追った。
だが、川下には左近の伏兵が隠れており、その出現で中村隊は挟み撃ちになってしまった。
そこは深田で足場が悪く、中村隊は散々に討取られてしまう事態となった。

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