毛利輝元の出陣を警戒した家康

家康としても、毛利輝元の出馬だけは何としても阻止しなければならなかった。
もし、輝元が大坂の本隊を率いて出馬するようになれば、その先頭に秀頼がいる可能性も排除できない。
秀頼が出馬すれば、福島はもちろん浅野、池田、黒田も戦いをやめ、そこで大坂方の勝利は決定的になる。
仮に、秀頼が出馬しなくとも、秀頼の親衛隊は金の千成瓢箪を掲げて、毛利軍の先頭に立つやもしれない。
それは福島らを躊躇させるには十分な行為であった。
しかし、三成が何度要請しても、輝元が出陣することはなかった。
輝元は大坂で安国寺の情報から、美濃の武将たちが三成方を次々と離反して徳川に付くという現実を知り、情勢の不利を覚ったのであろうか。
ここに三成が用意した松尾山城は最後まで本来の城将を迎えることはなくなってしまった。
9月12日付で三成は、家康の到着がないのだから輝元の出馬がないのはもっともだと思うが、もし、出馬がない時には佐和山に毛利5千の兵を置いてほしいと大坂にいる奉行増田長盛に訴えている。
その一方で、輝元の出馬がないことに一般の将士は不振を抱いているとも述べている。
ここに西軍にとって疑心暗鬼による団結の乱れが生じようとしていた。
何がなくとも、例え家康の到着が遅れていようとも、三成にとって毛利輝元の出馬は最後の切り札であった。
だが、ここにきて、三成は輝元の出馬を断念し、5千の兵を佐和山に控えさせて、いざとなれば、関ヶ原に集結させるというシナリオを立てるしかなくなった。
この書状にはその苦悩が見て取れる。

タイトルとURLをコピーしました