大津城の攻防2

城に帰還した高次は城に強引に入城しようとして、それを阻止する毛利軍と争いになったが、城に入ることに成功し、そこで籠城した。
籠城の兵は三千ともいわれているが、これにより、毛利軍は城を力攻めし、奪還するしか術はなくなった。
城の攻防は激しいものとなった。
『言継卿記』には「毎日合戦があり、手負数を知らず」とある。
7日、家康は籠城中の高次に大坂方と手切れをして味方についたことを賞する書状を送り、家康自身も七日遠江中泉に着陣したことを伝えた。さすがに、家康の手の打ち方は早い。
孤立した高次には大きな希望となったことであろう。
『時慶卿記』には、八日、「大津城責、鉄砲の響き地を動す。町悉く焼き払い」とあり、籠城を決意した高次は自ら城下を放火して、城攻軍の防御となる建物を除去する一方で、苅田を行って食糧を確保する動きに出た。
これに対して毛利軍は大坂に援軍を要請し、立花宗茂、毛利秀包らも加わり一万五千の大軍で城を囲み、城に開城を要求したが、城側はこれを一蹴したため、西軍の大津城攻撃は始まった。
宗茂らの攻城軍は城を見下ろす長等山に大筒を据えてそこから城に砲弾を撃ちかけた。

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