大坂方の番城になる予定であった大津城

大津城は伏見、大坂への入口にあり、しかも琵琶湖の水運を通して北国からの物資が集積される湖上交通の要所に築かれた城で、毛利軍は勢田と同様にこの城を押さえ、ここに在番の部隊を置く構想であった。
その大津を領する京極高次は当初は8月7日、大坂方として北陸に転戦していたが、その行軍の速度は遅く、近江長浜辺り(諸説あり)まで達したとき、突然戦線を離脱し、9月3日、大津に帰還するとそこに籠城し、反旗を翻した。
ただ、高次はすでに7月26日に家康に上方の情勢を知らせ、家康からも返書をもらうなど、家康方としての動きを取っていたことは事実である。
成り行き上、三成方として転戦したものの、初めから、家康方に付くつもりで時期を待っていたのであろう。
そんな高次としては、大津を大坂方の番城にすることなどできるはずはない。
それを阻止するためには、毛利軍が城に入る前にどうしても自らが城に入る必要があった。
帰還した高次は城に強引に入城しようとして毛利軍と争いになったが、何とか城に入ることに成功し、そこで籠城した。
籠城の兵は三千ともいわれているが、高次が籠城した以上、毛利軍としては城を力攻めし、奪還するしか術はなくなった。

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