大津開城

同じく、『慶長記』によれば、京の町人共は大筒が撃ち込まれ、それに悲鳴をあげて逃げ出す城内の様子を重箱持参で、三井寺の観音堂で日々見物していたという。
彼らは、まるでショーでも見るような感覚でそれを見ていたのであろうか。
ここから、当時の民衆のたくましい姿を垣間見ることができる。
ただ、彼らは単に城攻めを見るためだけに集まってきたのかという疑問も残る。
あるいは、現代の火事場泥棒のような戦利品目当てもあったことだろう。
しかし、城側の抵抗は激しく、当初、攻城軍は城の一番外側にある外構えすら落とせない状況であった。
だが、やがて、外堀を埋め、三の丸に攻め入り、本丸を包囲した。
城側の玉砕かと思われた9月14日、高野山の木食上人らが城中に入って和睦を勧告し、翌15日に高次はこれを受け入れて高野山に向かった。
だが、その運命の日、9月15日は関ヶ原で大坂軍と徳川軍の本隊がぶつかった日であり、大津城攻めの主力部隊1万5千の兵が関ケ原に到着することはついになかった。
彼らを引き付けた効果は大きかった。
もし、立花宗茂ら1万5千が関ヶ原に到着していたとしたら、戦線は膠着し、松尾山の小早川軍の動きを止められた可能性が高い。
家康にとって、大津城攻防の意味は大きかった。
これにより、京極高次は家康から三万石の加増を受け、若狭小浜八万石の城主となる。
また、大津城はこの戦で軍事的な弱点が暴露され、廃城となり、その機能は近江膳所城に受け継がれることになる。

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