ポスト秀吉⑲

奉行たちとの確執はそれだけではなかった。
文禄4年(1595)、正月、朝鮮への出兵はすでに三年を経ようとしていた。
日本軍は、果敢に進軍し、一時は朝鮮の首都漢城(現在のソウル)を確保する勢いであったが、朝鮮の義兵によって兵糧の輸送路を経たれ、寒さと深刻な食糧不足で餓死する者が後を立たず、戦の継続は困難を極めていた。
明との間には講和の動きが高まり、前年の終わりから日本軍の帰国が相次ぎ、戦いは一時小康状態にあった。そんな中、奉行の石田三成は、九州筑前に備蓄されていた朝鮮への兵糧米を上方へ回送させていた。
当時、上方では秀吉の隠居城である伏見城の築城が始まっていた。
秀吉は、九州から帰国した東国の大名たちに伏見城の工事に当たらせていたが、大量の人員が動いたことで米の相場が二倍にもなっていた。
三成は、その前年も、検地を実行した九州島津領内にある太閤蔵入地(秀吉直轄の領地)一万石の代官として、そこで採れた5千石の米を兵糧米に充てることなく、上方へ回送し換金していた。
三成らは、島津氏が朝鮮で戦っている間も、米の滞納を許さず、滞納には高利子をつけるか、「金子になりとも、銀子になりとも、代替えせよ」と厳しく迫っていた。
だが、これは一人三成に限ったことではなく、他の奉行、前田玄以、長束正家、増田長盛も同様であった。
その意味では、石田三成の独断ではなく、豊臣政権執行官である奉行たちの総意、任務で行っていたことであった。
九州肥後半国を領する加藤清正も、奉行四人の名で、藏米の滞納について1千石につき銀子一枚の追徴金を課す旨を言い渡されていた。

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