杭瀬川合戦の意味

中村隊の隣で、これを見ていた有馬豊氏の隊はすぐに救援に向かったが、今度は宇喜多秀家の鉄砲隊に迎撃され打ち負かされてしまった。
この小さな前哨戦は、敗戦続きで意気消沈している大坂方の士気を挙げるために島左近らが三成に申し出て行われたとされるが、その日の深夜に大坂方が大垣から関ヶ原に移動することを考えると、そればかりではないもう一つの意味があったようにも思われる。
それは、岡山の徳川軍に次の攻撃があることを暗示させ、警備を厳重にさせて守りの態勢に入らせることを狙ったことである。
一度守りの態勢に入れば、大軍であるほど急には攻撃の態勢など取れないはずである。
そうなれば、敵の意表を付く形で、大坂方は大垣から関ヶ原に自らの大軍を移動させつことができる。
この日、9月14日、もう一つ大きな事件が起きていた。
それは、関ヶ原松尾山城で番をしていた大垣城の伊藤盛正とその兵を追い出す形で小早川秀秋が松尾山に入城したことである。
通説では、三成らが14日深夜に大垣城を出て関ヶ原に移動した原因が、去就が疑われる小早川秀秋が最重要の松尾山に入ったことから、大谷吉継を救援するためであったとされている。
これは、関ヶ原合戦後の17日の吉川広家が記した書状案で「秀秋の逆意がすでにはっきりした、そのために大垣衆も山中に移り、大谷吉継の陣が心配なため引き取った」とあることがその根拠になっていると思われる。
だが、本当にそうであろうか?
もし、そうであるなら、石田三成らは小早川の松尾山城を取り囲むような布陣を取っていて当然だが、実際の布陣は中山道、北国街道を封鎖するための整然とした布陣が取られている。

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