小西行長の逃走路

関ケ原での戦は、彦坂元正・石川安通連署書状に「筑前中納言殿(小早川秀秋)・わき坂中書(脇坂安治)・小河土佐父子(小川佑忠・佑滋)、此四人御味方申し、うらきり(裏切り)を致し候、則敵敗軍仕り」とあるように、小早川、脇坂、小川の裏切りによって一日で決着が付くことになった。
これについては、先のブログで小早川・脇坂については事前の申し合わせ、さらには両者が合体する必然的な環境があったと述べたとおりである。
関ケ原で勝利した徳川軍は予定通り、次の目標である佐和山城に進み、城を包囲した。
佐和山城が陥落したのは、関ケ原合戦からわずか二日後の9月17日であった。
9月22日、家康の重臣本多正純は関ケ原合戦直後の状況を書状に書いているが、その中に「小西摂津守者、御一戦に討ち漏らし候ところ、濃州ほたいと申すところにて搦め取り参候事」とある。
小西行長は戦場から逃走していたが、美濃の「菩提「」というところで搦め取られたというのである。
『美濃雑事記』によれば、「小西摂津守行長は美濃糟河の谷というところに隠れて」とある。
ここでいう「糟河の谷」というのは、「春日村の谷」という集落を指しているものと思われるが、それは現在も菩提山の北東に存在する「谷」という集落のことを指すのであろうか。
もし、そうだとすれば、小西行長は大坂ではなく、菩提山城、もしくは大垣城に入るつもりであったと推定される。
それらは、間道を使えば、関ケ原から最短で入れる拠点城郭でもあった。
小西はそこで再起をはかるつもりであったのか。
しかし、その大垣城も合戦より二日後の17日に開城していた。

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