三成の思惑を打ち砕こうとした家康

このブログでも紹介した宇喜多秀家陣の防塁、玉の城山も三成らによって築かれたそれら要害の一つであり、それ以外にも『敗者から見た関ケ原合戦』で述べた北国街道を塞ぐ長い土塁なども存在し、松尾山から三成の笹尾山に至るまでが中山道、北国街道を封鎖する一つの防衛線となって、徳川軍を食い止めせん滅する構えが取られていたものと思われる。
それに対し、家康は立花宗茂などの軍が関ヶ原に集結する前に、素早い行動をもって三成のその思惑を完全に打ち砕き、三成らの迎撃態勢が完全に整わないうちにそれを打ち破る策に出たのである。
また、関ケ原における三成の防衛線については、竹中重門によって事前に徳川方に詳細に伝えられていたはずであり、大坂方の関ケ原移動の後を追った彼らが石田、小西、宇喜多、大谷らの陣と対峙する形でスムーズに布陣できたのもそのためであったものと思われる。
だが、その家康にも不安がなかったわけではない。
それは、垂井の南宮山に布陣している毛利軍三万の動きが読めなかったことである。

タイトルとURLをコピーしました