上杉攻め前夜

慶長4年(1599)閏3月、石田三成襲撃事件が福島正則、黒田長政、浅野幸長ら豊臣系の大名七将によって引き起こされた。
この事件は、秀吉亡き後の豊臣政権内に衝撃を走らせた。
彼ら七将は日頃から、朝鮮出兵での論功行賞などをはじめとする三成の措置に大きな不満をもっていた大名たちで、それが大老前田利家の死を契機に、一気に噴出したのであった。
この事件は、政権を事実上支えてきた奉行の中心者に秀吉恩顧の大名たちが公然と叛旗を翻したのであり、秀吉の死後、わずか一年で、豊臣政権はその基盤の不安定さを露見させることになったことはいうまでもない。
三成は彼らの襲撃を避け、伏見城の自らの屋敷に入ったが、最初に連絡を取ったのは中国120万石を領する大老毛利輝元であった。
この事態に、三成方に付いたのはその毛利輝元をはじめ、小西行長、佐竹義宣、大谷吉継らで、ここに両者との間で一触即発の危機が訪れることとなった。
この事件の背後には大老徳川家康と三成らとの対立があり、七将は家康派として、公然と三成を亡き者にしようとはかったのであった。
そこで、三成らは大坂城を占拠し、毛利輝元の軍勢を上方に集めて、家康に対峙する作戦を取ろうとした。
しかし、大坂城の占拠に失敗し、事はならなかった。
その結果、この事件は大老筆頭という立場で家康が介入し、他の大老毛利輝元、上杉景勝らと協議して、当事者の三成に奉行職を辞任させ、居城佐和山城に引退させることをもって落着することとなった。
家康は政敵三成を封じ込めるのに成功したのであった。
三成はその無念の心情を毛利輝元の使僧安国寺恵瓊に書状で綴ったが、引退が大老三人による決定である以上どうにもならなかった。

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