短期決戦を考えていなかった三成

長盛と家康が通じているという噂は確かに当時あったものと思われるが、その事情で輝元が出陣を取りやめたとは思えない。
だが、ここで重要なことは、輝元出陣の噂があったということであろう。
それが、事前に家康の耳に入っていたとすると、これが家康をして短期決戦に踏み切らせた大きな原因の一つとなった可能性は高い。
家康は毛利輝元が戦場に姿を現す前に、何としても、三成らを殲滅させねばならなかった。
だが、先の12日付書状に「二十日以内に家康を討ち果たす」とあったように、三成自身は短期決戦などは考えていなかった。
関ケ原に大津城攻めを終えた立花宗茂ら一万五千、そして、丹波田辺城攻めを終えた小野木ら一万五千の兵を集め、そこで徳川軍を食い止め、その間に毛利輝元の出陣を実現する構想であったものと思われる。
彦坂元正・石川安通連署書状によれば、「敵切所を抱有所へ指懸とりむすび候」とあり、ここから、関ヶ原には三成らが築いた「切所」(要害)があったことが分かる。
『黒田家譜』にも、「いにしえ不破の関有りし大関の辺りに関所をすへ、海道をさしふさぎ、西国・北国の往来を打ちとどめ」とあり、関ヶ原には石田三成らが中山道、北国街道を封鎖するために築いた数々の要害があったことが分かる。
これについては、拙著『敗者から見た関ケ原合戦』やこのブログで具体的に述べたとおりである。

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