関ケ原の布陣は主要街道の封鎖

『黒田家譜』には、「海道をさしふさぎ、西国・北国の往来を打ちとどめ」とあり、三成らの布陣はまさに、中山道、北國街道の二つの主要街道を封鎖するための布陣と認識されていたことが分かる。
事実、関ケ原現地には、その二つの街道を封鎖したであろう遺構が今も残っている。
関ヶ原への移動はあらかじめそこに築かれた要害陣地によって徳川軍を迎え撃つことにその目的があったものと思われる。
14日深夜に動いたのは、本陣岡山に大将の家康が着いたばかりで、まだ、徳川軍にまだ十分な態勢が取れておらず、なおかつ杭瀬川の戦いで守りに入った徳川軍の間隙を突いて関ヶ原に布陣するためであったのではなかろうか。
8月22日付佐々正孝が出羽の秋田実季に宛てた書状の中によれば、大谷吉継らは、前田利長の軍勢を防ぐべく越前木の芽峠に砦を築いて、小早川秀秋を城主として守らせるつもりであったことが分かる。
その砦は木下勝俊、鍋島勝茂、毛利吉政ら一万の兵が築いたとある。
この書状から、小早川秀秋は、このころは越前方面の防備に主将としてつくことになっていたことが分かる。
26日にはそこへ向かうことになっていた。
しかし、美濃の情勢の悪化により、大谷吉継は急きょ美濃に向かうことになり、それに伴って、小早川も美濃に転進することになり、最後は近江柏原まで兵を進めたのであった。
ここまでは完全に西軍として行動していた。

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