西軍移動す

彦坂元正・石川安通連署書状に「十四日之夜五ッ時分ニ大柿外曲輪を焼払、関か原へ一所ニ打寄候つる」とあり、それまで大垣城に籠っていた大坂方は城下に火をつけて、14日深夜、関ヶ原への移動を開始した。
だが、大坂方はメインの中山道ではなく、長曽我部隊の布陣する栗原山の前を通り、松尾山の大手(関ヶ原の裏手)に出る牧田の間道を通って移動した。
このルートは、途中、南宮山、栗原山、松尾山の山麓を取るルートであり、三成は途中、長束正家、安国寺恵瓊、小早川秀秋の陣を訪ね、決戦時の行動について打ち合わせをしている。
一方、岡山の本陣で、家康は、三成らが夜半大垣城を出たという情報を聞くや否や、すぐに出陣の準備を行い、全軍に三成らの後を追うよう命を下した。
ここに家康は秀忠の到着を待たずして、豊臣大名を主力とした部隊で三成らに決戦を挑むことを決意した。
通説では、12、3日頃には毛利輝元が秀頼を奉じて、佐和山に赴く準備が進められていたが、奉行の増田長盛が家康と通じているとの流言で中止されたとされている。
確かに、三成は12日付の書状で「下々の取沙汰では、貴殿と家康との間に密かに話し合いがついていて、人質の妻子は一人も成敗することはないと言っている」とあることから、長盛と家康が通じているという噂は確かに当時あったものと思われる。

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