菩提山城に入ることを想定されていた人物とはいったい誰だったのであろうか。
確実に言えることは、現在の大規模な菩提山城は竹中氏時代の城ではなく、大改修されたものであるということである。
あえて、推測をするなら、竹中時代の菩提山城は山頂とそこから派生する尾根に小曲輪を配しただけの小規模な山城であったのではなかろうか。
東西両軍の激突を想定する中で菩提山の立地に注目した人物は、かつての小規模な山城を大軍を収容できる強固な陣城に大改修したことは間違いない。
井伊直政は関ケ原合戦の前月8月24日に竹中重門、加藤貞泰らに宛てて、岐阜城が昨日落城したこと、それを応援に来た三成の軍を追い崩したことを報告し、「早々内々筋目の如く引退すべく候」と犬山城から退いて帰順するよう述べている。
また、同月25日、加藤貞泰の家臣加藤光政が掛川城主の山内一豊に宛てた書状の中でも、犬山城主石川光吉が城を明け渡して退出することを述べている。
ここに竹中重門らは犬山城を出て、自らの領地に帰り、徳川方として戦うことが「筋目」となった、彼らは名実共に徳川方と認められたのであった。
これらのことから、25日前後には竹中重門も犬山城を出て、居城の岩手城に帰還したものと思われる。
『徳川15代史』によれば、竹中重門は加藤貞泰らとともに赤坂の陣所へ行ったというから、その後は、赤坂の岡山にいたのかもしれない。
そして、このころには、大規模な陣城として生まれ変わっていた菩提山城の存在を岡山の井伊直政らに伝えたはずである。

(菩提山城虎口)