竹中重門はこれから一週間ほど後の9月3日に小田原に到着した家康に使者を送り、家康は竹中重門に犬山城明け渡しにおける忠節を賞する書状を送っている。
このとき、菩提山城の話が出たかどうかは分からないが、竹中重門が犬山城を出る25日前後には井伊直政らを通して、菩提山城を東軍に進上する話は出ていたことであろう。
そうでなければ、東軍本陣岡山の普請が最後まで簡素であった意味が説明できない。
また、竹中重門が犬山城に入って以降は、菩提山城の普請工事が行われたとは考えられないことから、菩提山城の大改修は竹中が犬山に入る時点では終了していたことになる。
そう考えれば、菩提山城の普請は、相当早く行われていたと考えざるをえない。
8月19日、島津義弘は国元の老臣本田六右衛門に書状を送っているが、その中で、美濃国垂井に着陣したことを報じているが、そのとき、島津は1000人ほどの兵を率いている。
さらに、8月22日付井伊直政が本多正信らに宛てた書状にも垂井には島津・立花の兵がいると述べられている。
立花宗茂が率いてきた軍勢は4000余りで、垂井でこれほどの兵を収容できる場所といえば菩提山くらいしかない。
そう考えると、徳川軍による岐阜城攻撃直前まで、菩提山城には大坂方の兵が入っていた可能性も否定できない。
ただ、彼らはそのまま引き続いて菩提山に布陣することはなかった。

(菩提山城大堀切)