垂井・関ケ原の領主 竹中重門

岐阜城総攻撃の前日8月22日付の井伊直政の書状には、岐阜城を落としたら、次は佐和山城へ移動することが話し合われたと述べられており、諸将の一致した認識は岐阜城の次は佐和山城への総攻撃であった。
岐阜城が落ち、徳川軍が佐和山城を次のターゲットとした以上、三成方がそれを阻止するには必然的に垂井から関ケ原方面で彼らを食い止めるしか術はない。
垂井は関ヶ原に入るための中山道の塧路である。
そこを押さえれば、関ヶ原への侵入を食い止めることができる。
また、垂井の構えを破られ、関ヶ原への侵入を許したとしても、そこを通過するには後に大谷吉継が守ることになる関ヶ原山中村が同じく中山道の塧路になる。
この二つの地点を抑えることが今後の戦略上、極めて重要になることはいうまでもない。
三成は以前からそれを想定して、すでに関ケ原に家康を迎え撃つ陣城・陣地の構築を行っていたと思われ、先に述べた「玉の城山」はその山中村のすぐ背後に築かれている。
地理的な状況を考えれば、「玉の城山」は大谷の詰めの城であっても不思議ではない。
だが、一番の問題は、竹中重門は三成が早くから事態を想定して築いたそれら垂井・関ケ原の陣城や陣地に関与していた可能性が高いということである。
というのは、大垣と佐和山の間にある垂井・関ケ原は一部を除いてことごとく竹中重門の領地であり、垂井、関ケ原に三成が徳川軍を迎え撃つための陣城や陣地の構築など何らかの普請を施す場合、その地の領主である竹中の力を借りることは大きな前提となっていたからである。

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