徳川軍が岡山の普請にそれほど力を入れていないのは、すでに8月24日の時点で大規模陣城として利用できる菩提山城がすでに存在していたからではなかろうか。
徳川軍はいずれはそこに移り、大垣城と対峙することを前提に考えていたのかもしれない。
菩提山城を大規模な陣城に改修したのは徳川軍ではないとすると、いったい誰なのであろうか。

その謎を解くために、実際に、菩提山に登ってみた。
菩提山は標高401メートルの山で、山麓から見ると一見なだらかで登りやすそうに見える。
登には3つのハイキングコースがあり、そのどこからも登ることが出来る。
だが、山道は急峻で、山頂までは約1時間を要する。
毛利秀元が陣を布いた南宮山ほど険しくはないが、それでもゆっくりと休みながら登らないと普段山登りをしない人には少し辛い登山になるかもしれない。
山道の途中までは、何らの遺構もみられないが、山頂近くなると急に二本の縦堀が現れ、それによって、道が巧妙にS字状に曲げられている。まさに、ここから菩提山城の攻撃圏内に入ったことが分かる。
道を先に進もうとすると、道の左にある数段の小曲輪から攻撃を受ける仕組みにになっている。
それを何とかかわして、先を進むと道は自動的に堀切の中に入り(下の写真)、今度は堀切の上から頭上攻撃を受ける構造となっている。
さらに、堀切からの攻撃を何とかしのいで初めての曲輪に入ろうとすると桝形虎口が待ち構えており、そこを突破しようとする間にも頭上攻撃を常に受け続けることになる。
ここだけを見ても、城は考え抜かれた巧みな構造であることが分かる。

(菩提山城 堀切の中を通る通路)