徳川軍による岐阜城攻撃直前まで、菩提山城には大坂方の兵が入っていた可能性も否定はできない。
ただ、彼らはそのまま引き続いて菩提山に布陣することはなかった。
その理由は岐阜城が落城し、徳川軍がそこから大垣に近い岡山に陣を取ったため、大垣の防衛を優先にしなければならず、大垣に兵を集めたからであろう。
その間に、竹中重門は犬山城を出て、菩提山に帰還し、菩提山を押さえてしまったのではなかろうか。
8月29日付けの保科正光書状に大坂方は「たるい・赤坂を取り切りとられ、各大垣へ立て籠もり候」とあり、赤坂とは岡山のことであり、「たるい」とは菩提山を指しているのではなかろうか。
ここから、29日時点で垂井の菩提山が徳川軍に押さえられていたと考えられる。
垂井・関ケ原に領地を持つ竹中重門が徳川方に付いたことは大きな意味を持っていた。

(菩提山城二の曲輪から見た垂井方面)