謎を呼ぶ菩提山城

『竹中家譜』によると、重門は家督を継ぐと、菩提山から山麓の岩手館に居城を移し、天正16年(1586)に従五位下丹後守に任じられたとある。
これによれば、竹中重門は本拠を菩提山麓の岩手館とし、山城であった菩提山を廃したことが分かる。
ただ、菩提山は城主の住む常の城ではなくなったものの、有事の際に逃げ込むための詰の城としての機能は残されていたと思われる。
何より、垂井は大垣と関ケ原、近江を結ぶメインルート中山道の宿であり、美濃一宮である南宮大社も鎮座する要地である。
家康軍が中山道を西上し、大坂方がそれを食い止めるという図式を考えた時、要衝垂井の菩提山城が戦略上の要地として注目されるようになるのは当然のことであろう。
それは、東西両軍に言えることである。
ただ、不可解に思われるのは、美濃垂井及び関ケ原の八ヶ村をその領地とし、多く見積もっても350人ほどの兵数しか動員できない竹中氏のかつての山城が徳川軍の本陣になるほどの構造と広さ、さらには、高い要害性をもっていたとは考えにくい。
いったい、井伊直政らは何をもってそこを本陣とするつもりであったのか。
それとも、これから地の利の良い菩提山城を本陣とするため、新たな普請でも始めるつもりでいたのであろうか。
この疑問は現地に行かないと分からない。

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