佐和山城への思慕

城ばかりではなく、佐和山の領民たちは領主である石田三成を慕っていた。
 それは一つには三成が領内石田村の生まれで、いわば地元出身の出世頭であったからである。
 つまり、三成はいわば故郷に錦を飾る形で地元佐和山の城主となって帰ってきたといってよい。
 「石田様はほんにたいしたものだ。」
 彼らはそんな三成を誇りに思い、領主として慕った。
 当時、三成は領内に掟書を出しているが、この掟書はかなを多く使ってわかりやすく書いてある。これは、まさに、領民たちが自ら読んで理解できるようにとの三成の細やかな配慮に他ならない。
 このこと一つとっても、三成が領民をいかに大切にしていたかが分かる。
 その掟書の細かい内容は省略するが、例えば百姓が必要以上に夫役を出すことの禁止や百姓の三成への直訴を認め、彼らが田に植えた裏作の麦は三分の一を年貢として納め、屋敷内の麦には課税しないことなどをうたっている。
 三成の掟書は明確に農民保護を打ち出しているが、三成自身、領民、百姓たちの実情にかなり通じていたことが分かる。三成は領民の視線に立って見ることのできる民政に通じた政治家でもあった。
 大半の三成文書は破棄されたにも関わらず、この掟書は今日まで残されてきた。それは、三成を慕う領民たちが、あるいは、これを家の家宝として長く守り伝えた結果であるのかもしれない。
 「石田様はわしらにやさしいお殿様だ。」
 あるいはそんな三成への思慕があったからなのかもしれない。
 それゆえ、井伊氏としては、豊臣色、石田色の強い佐和山城を跡形もなく破壊し、彼らの三成への思慕を断ち、そこに徳川家による新たな時代の幕開けを領民たちに示す必要があった。

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